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焼いも販売はどこで始まったのか?京都発祥説を検証

こんにちは、代表理事の橋本です。
先日、「焼き芋を売ったのは京都が最初だったというネット記事を見つけたのですが、焼き芋は京都発祥説は根強い情報でしょうか?」という問合せがありました。
私自身は回答を持ち合わせていなかったので、『サツマイモ辞典』を確認し、「1719年に来日した朝鮮通信使の随員の記録に、京都に焼いも屋があったという内容が残っているそうです。江戸に焼いも屋ができたのが1793年とされていますので、京都が最初ということは言えると思います。」と回答しました。

また、Wikipediaの焼き芋でも、「本州でも享保4年(1719年)旧暦9月12日に京都郊外で酒や餅とともに焼き芋が売られていた、と朝鮮通信使が『海游録』に記している。」と書かれています。

そこで終われば良かったのですが、最近、サツマイモに関する古書集めをしていることもあり、「朝鮮通信使の随員の記録」を古書店から取り寄せてみることにしました。
すると果たして京都が発祥が正しいのか?と思える内容が出てきたので、ここで検証した内容を書いていきたいと思います。

まず、「1719年に来日した朝鮮通信使の随員の記録」というのは、1719年の第9回朝鮮通信使一行の製述官・申維翰が著した紀行文である『海游録』(かいゆうろく)を指します。
ここには次の写真のように、「居人はそれぞれ酒、餅、煎茶、焼芋を用意して路傍に列べ置き、通行人を待って銭を稼ぐ」と確かに書かれています。
これだけをみると、峠の茶屋で焼いもが売られていたのか…と解釈できそうです。

ただ、ここでふと疑問に感じました。
日本の本州にサツマイモが入ったのは1705年です。その後、西日本ではいくつかの場所で栽培が広まった記録がありますが、1719年時点で京都で販売できるほどサツマイモが作られていたのだろうか?
特に、当時は飢饉がいつ起こるかわからないような状況で、救荒作物として取り入れられたサツマイモは自家消費分の生産だけで精いっぱいではないか?
また、青木昆陽が救荒作物としてのサツマイモの栽培法・貯蔵法などを記した『蕃藷考』(ばんしょこう)を出したのが1735年で、江戸に焼いも屋ができたのが1793年と、江戸でも焼いも屋ができるまでに60年近くかかっています。

ということで、まずは京都にサツマイモの栽培が広まった時期を確認してみます。

京都には嶋利兵衛という方が流刑先の長崎の壱峻島から1757年に種いもと栽培法を伝えたことになっています。
先述の通り、西日本では1700年初頭にはすでにサツマイモ栽培が広まりつつあったので、京都でも試作は行われていてもおかしくありません。たけど当時はうまく育てることができず、嶋利兵衛の指導により生産に成功したというのが正しいと思われます。
https://www.city.joyo.kyoto.jp/0000004141.html
https://xn--6oqz6c35b6zh48ipn2e0ys.jp/kankou/rekisi5.html

ちなみに、1716年に琉球から種いもと栽培法を伝えたという説や流刑先も諸説もありますが、下記の通り1757年説が有力です。 (<PHP新書>サツマイモと日本人より)

京都にサツマイモが伝わった時期による考察だけでも、京都に1719年に焼いも屋(正確には焼芋がメニューにあった飲食店)があったというの説はかなりあやしいということが言える気がします。

では『海游録』にかかれた焼芋とは何か?について続けて検証したいと思います。後半はこちらから。

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