代表理事の橋本です。
前回の記事に引き続き、焼いも京都発祥説について検証を続けたいと思います。
さて、前回の記事中の写真に写っていたもう一冊は、1764年の第11回朝鮮通信使正使・趙曮が著した『海槎日記』(かいさにっき)です。
こちらには次の写真のように、対馬島で甘藷(サツマイモ)を見つけたことが書かれています。他の歴史書も合わせて読むと、どうやらこの時に朝鮮半島にサツマイモの種いもと栽培法が伝わっています。つまり、当時の朝鮮ではサツマイモは栽培されておらず(1633年にサツマイモを普及しようとした記録はある)、これよりも45年前の第9回朝鮮通信使の方がサツマイモのことを判別できたかというと、できないのではないか?と思われます。
ということで、「焼芋」の「芋」はサツマイモではなく、別のイモではないか?と推測されまして、では何のイモかというと私はサトイモと考えます。
いまでこそ「芋」はイモ類全般を指すものとなっています。
しかし、サトイモが日本に伝わったのは縄文時代と早く、江戸前期の本草学者である人見必大が著した『本草食鑑』(1697)に「芋和名以閉都以毛(イヘツイモ)。今、以毛(イモ)と訓む。あるいは里以毛(サトイモ)ともいう」と書かれているように、日本の古代から江戸時代までは「芋=サトイモ」でした。
余談ですが、この理由から、私はサツマイモのことを指す際に、「芋」という漢字はできるだけ使わないようにしています。
地理的なことを考えても、朝鮮半島には日本よりも早く伝わり栽培されているはずなので、朝鮮通信使一行もサトイモについては判別ができ、芋と記録してもおかしくありません。
前回の心残りとして、漢文で書かれた原著ではなく日本語訳を読んでるので「焼芋」が実際にどのように書かれていたかを確認できていませんでした。
そこで、韓国圏のサイトを巡回巡回巡回したところ、なんとか原文を見つけ出しました。
次が漢文で書かれている原文です。
十二日辛巳
http://www.davincimap.co.kr/davBase/Source/davSource.jsp?Job=Body&SourID=SOUR001274&Lang=%ED%95%9C%EB%AC%B8&Page=2
晴。使臣以人馬不齊之意。貽書京尹。欲令馬島人知罪。奉行輩惶甚請行。遂發。閭町男女簇路華艶。與昨一般。行十餘里。愈往愈新。度三乘橋。橋長百餘步。高十丈許。左右有欄。欄柱皆銅鐵冒。甚壯也。又十里踰小峴。夾路人家皆酒店。地勢近峽。村落或稀少。居人各設酒餠煎茶燒芋。列置路旁。以待行者覓錢。當罏女子。必傅粉鮮衣。盤皿亦淨新。倭俗器不潔不食。見主者色陋亦不食。所以列店多姣姬。晡抵大津。閭里人民亦殷盛。是爲近江州地。使行館于本長寺。余則有別舍蕭洒。支待官靑山因幡守。遣一僧致牘。謂以公務多煩。未卽承晤。意甚惓惓。僧名貞侃。略解文字爲禪語。觀其意。欲乞我手書而去。以爲主官光色。余寫兩絶句給之。正使相患瘧。停行仍留宿。昏暮震浩自淀城。綰行李追到。備言兩晝一夜。彷徨鬱念之狀。人情喜慰。是日行三十里。
原文では変わらず「燒芋」でした。
原文をそのまま翻訳にかけてみました。
タロイモは根茎を食用とするサトイモ科の植物の総称なので、二つの翻訳結果からしても、漢文(中国語)で芋はサトイモを指すと考えてもらって良いのではないかと思います。
ちなみに、DeepL翻訳で「Roasted Sweet Potato」を中国語に訳すと「烤红薯」でした。
さらに、江戸の儒者寺門静軒が著した、江戸末期の江戸市中の繁栄ぶりを狂体漢文で叙した風俗書『江戸繁昌記』(1832-36)には、煨薯(ヤキイモ)の項目があり、次の通り、蕃薯(バンショ)、琉球薯、薩摩薯と「薯」が使われています。(薬食は獣肉食一般を指すそうです。すでに「おさつ」という愛称で呼ばれてたんですね)
蕃薯の都下に行わる、今すでに久し。然ども煨食の行わる、また薬食と同一時なり。関西、琉球薯と称し、関東、薩摩薯と呼ぶ。江戸の婦人、皆、阿薩(おさつ)と曰う。
ただ、『守貞漫稿』(1853)には、江戸の焼いも屋さんの看板に「芋」の字が使われているイラストが載っていましたので、まったく 「芋」 が使われていなかったわけではなさそうですが、サツマイモは「甘藷」「 薯 」「いも」で表されるほうが多いことには変わりありません。
では、まとめます。
- 京都にサツマイモの種いもと栽培法が伝わったのは1757年なので、1719年にサツマイモを店で提供するのは難しいと思われる。
- 1764年に朝鮮通信使の方がサツマイモのことを対馬島で知り、朝鮮にサツマイモの栽培を本格的に伝えたので、朝鮮通信使の方がサツマイモを芋だと判別して記録するのは1719年には難しいと思われる。(ちなみに、ジャガイモに比べて栽培が難しいため、20世紀入るまでは、朝鮮では広く普及していなかったようだ)
- 当時の「芋」といえば、サトイモのことを指し、サツマイモには「薯」が使われていた。つまり、燒芋とは焼きサトイモと考えるほうが自然ではないか。
以上です。
いずれにしても、仮にサツマイモだったとしても、京都は単に峠の茶屋のメニューにあったというレベルで、どのような形態で焼いていたのかなどの記録がなく、現在に通じる焼いもの発祥地といえるかは疑問に感じます。
1789年に大阪で出版された料理本『甘藷百珍』にも焼いものレシピが載っていますので、1700年代後半にはサツマイモの焼いもが庶民の間で作られていたことは間違いないと思いますが、焼いも販売に関しては浮世絵などにも店舗の様子が描かれている江戸(東京)が発祥の地としたほうがしっくりします。
※文中の江戸時代の書籍写真は国立国会図書館デジタルコレクションより取得しました。